私がどんな人生を歩み、どんな経験をして「今ここ」に辿り着いたのか
私の人生の物語を通して、このサイトに訪れてくれた方の共感や、参考、励みになれば幸いです。
幼少期
私は、自然豊かな農家の大家族の元に生まれ、植物や虫、動物と触れ合いながら幼少期を過ごしました。
人見知りであがり症、HSC(ハイリー・センシティブ・チャイルド)と呼ばれる「人いちばい敏感な子」の特徴があり、感受性が強く、音や匂いや味、肌感覚にも敏感な子供でした。
自分の気持ちをあまり話さなかったため、母には「手は掛からないが何を考えているかよく分からない子だった」と言われます。
空想をして物語りを考えたり、絵を描くことが好きで一人静かに遊んでいることが多かったように思います。
また、動物も好きで野良猫と1時間見つめ合っていたり、子猫や子犬をよく拾って育てていました。
そんな私ですが、正義感が強く、怒りが湧いた時には目上の男子にも立ち向かって行く「気の強さ」も持っていました。
なので、小学校の頃に転校生から嫌がらせを受けても、相手に屈すること無く「やられたらやり返してやる!」と思って過ごしていました。
ただ……その後、クラスの女子の約半数から「突然無視される」ということが起き、流石の私も戸惑い、ショックを受けたことを覚えています。
この時、転校生が裏で「志保ちゃんを無視するように」と指示していたようです。
学生時代
私の「気の強さ」は、小学校で少々人間不信を覚え、そして中学に入学し初恋を経験したことで、更に表に出せなくなっていきます。
片思いの相手に嫌われないよう、周囲の目を気に掛けるようになったのです。
人とは違う髪型やファッションが好きで、どちらかというと我が道を行く性格だったのですが……
元々の人見知りとあがり症も手伝い、徐々に「受け身」な人付き合いになっていきます。
初めての男女交際
高校に入学して間もなく、声を掛けてくれた男子生徒との交際をスタートしました。
彼はプライドが高く、自信満々で喧嘩っ早い、アウトローな人でした。
今までに全く出逢ったことのないタイプで、私は、蛇に睨まれたカエルのように、完全に彼の雰囲気に飲み込まれていました。
最初は彼も優しく、私も自分に無いものを持っている彼に対し「憧れ」の気持ちを抱いていました。
ですが、私が楽しい気持ちで高校生活を送ったのは僅か1ヶ月程度で、彼は次第に私の嫌がることも強要するようになります。
彼は私の話しを聞くと、急に機嫌が悪くなることがありました。
なぜそんな風になってしまうのか…… 当時の私には全く理由が分からず「彼は私と一緒にいても楽しくないのだろう」と、どんどん自信を無くしていきます。
また、「彼の言う通りにしないと嫌われてしまう」と思い、自分の意に反しても彼に従っていました。
彼は、私が体調を崩していても、ケガをしていても、どんな時でも毎日会いに来ることを強要します。
私もそれに逆らわず、毎日彼の部屋に通っていました。
両親にはいつも「部活で遅くなる」と言って、本当は部活が終わってから約1時間、彼の部屋で過ごしていました。
彼とは外へ遊びに出たことはありません。毎日毎日ただ彼の部屋に行き、彼の話とギターを聞き、彼の言いなりになっていたのです。
私は次第に「私の存在は何なのだろう?」と、悲しさや虚しさを感じるようになりました。
別れの決意
この抑圧された環境から私を救い出してくれたのは、電車で顔を合わせていた他校の男子生徒でした。
彼は私が初めて自分の本心を話すことができた相手です。
太陽のようなくったくのない笑顔が印象的で、私は心安らぐ一時を過ごすことができたのです。
私は、この他校の男子と交際を始めるために、約1年間付き合った彼に別れを告げることを決意しました。
私を大きく変えた事件
私は彼に電話をし「もう会いに行かない、別れよう」と言いました。
どうせ彼は本気で私のことを考えてくれていない。そう思っていたので、すんなりと別れられると思っていました。
ところが…… この電話の後、彼は自殺未遂をしてしまったのです。
それまでは少しも弱音を吐かず、弱い所も見せたことの無い彼が、、、いつも誰に対しても俺様だった彼が、、、。
命には影響はなかったけれど、私はプライドが高かった彼の変わり果てた姿にショックを受け、これ以上彼を突き放せなくなりました。
彼は、また会いに来ることを約束しないと私を帰してくれませんでした。
私も彼の言葉を真に受けて、翌日もまたその翌日も、彼の部屋に行きました。
その後、彼は「お前のせいだ」と言って高校を中退し東京へ行ったのですが、それまでの数ヶ月間、私は結局、彼の部屋に通う日々へと戻ってしまったのです。
そして、その行動が太陽のような笑顔の他校の彼からも笑顔を奪ってしまいました。
今度は、家庭環境にも悩んでいた他校の彼が「俺を殺して」と私に嘆願するのです。
彼は暴走族の友人からマリファナを仕入れ、薬にも手を出すようになっていました。
他校の彼も付き合っていた彼も、親が離婚しており、引き取った側の親からお金を貰って生活していました。
子供と真剣に向き合わず、自分達の生活で精一杯になっている大人達に、私は悲しさと怒りを覚えました。
今から思うと2人の彼は、母親から与えて貰えなくなった母性を、無条件に自分を受け止めてくれる愛を、私に求めていたのだと思います。
私は高校2年の約1年間、恋愛どころではなく、ただひたすら「誰も命を落としませんように!」と駆け回る生活を送り…
そしてしばらくの間、周囲の人と目を合わせられず、下を向いて過ごしていました。
私の言動のせいで彼は高校を中退した。私は人の人生を変えてしまった。
そしてもう一人の彼を救えなかった。愛情を欲していた彼を裏切り、傷付いていた心を更に傷付けてしまった。
このことを知ったら…… 誰も私を許さないだろう。
当時の私は、そう思っていたのです。
また、この事件の後も朝目を覚ますと「彼の家に行かなきゃ!」と慌ててから、ハッと気付き「あぁ、終わったんだった…。」と胸をなでおろす日々が続きました。
あまりにも衝撃の強い出来事が続いたため、後から何度も夢に見ては、どちらが現在なのか混乱することが多々あったのです。
16歳~17歳のこの体験は私の心に深い傷を残し、私自身も「リストカット」をするようになりました。
県外就職
私は高校卒業と共に、辛い思い出から逃れるように地元を離れて県外へ就職しました。
ところが、入社して間もなく会社の寮で相部屋になった同期生から嫌がらせを受けます。
彼女は私のことを「何でいつもアイツばっかりなん?」「アイツの髪の毛持って引きずり回したるわ」と言っていました。
私が人気の高い部署に配属されたこと、同期の男性から好意を持たれていたことが気に入らないようでした。
彼女は毎晩のように私の悪口を話しているため、私はイヤホンを着けて寝ていました。その内、部屋の外に出た瞬間に内側から鍵をかけられたり、盗難があったため、直ぐに寮を出ることを決めました。
私は、この彼女の言った一言がずっと忘れられません。
「あいつ、自分のこと何も話せへんしな……。」
この言葉を聞いて、もっと自分のことを話した方が良いのだと気付くことが出来ました。
ですが、自分のことを思い出そうとすると辛い記憶が蘇ります。
また高校時代、友人達が楽しく放課後を過ごしている時、私はずっと彼の部屋にいて彼の話を聞いていました。
流行りの遊びも服も話題も、テレビ番組も分かりません。
自分からは、何を話したら良いのか分からなくなっていたのです。
初めての社会人生活で始めから人間関係でつまづいてしまった私は、一体どう行動すれば良いか、更に分からなくなりました。
そのため当時は、仲の良い友達の仕草や言動を真似して、人付き合いをやりすごしていたのです。
私が自分のことを話せるようになったのは、これからもう少し後の話になります。
再び起きたトラブル
寮を出てからは相部屋だった子と会うことも無く、他の同期生との間には特に問題もありませんでした。
ですが、今度は同じアパートの住人にしつこく声を掛けられたり、上司からのセクハラなど、新たな人間関係に悩まされます。
私は、自分の不安や寂しさを埋めるように、男性との交際を切らさずにいました。
そうやって日々を過ごしている中で、23歳の頃、交際していた男性と別れる時にまた問題が発生したのです。
入社して3年目、私は7歳年上の男性と付き合いました。
大勢でよく飲み会をし、私も一緒に楽しく飲んでいました。
彼は、複数人で遊ぶ時はとても個性とユーモアがあり楽しそうにしていましたが、いざ付き合ってみると、2人で居る時には無言でムスッとしているのです。
私はいつも彼の顔色をうかがい、彼が笑顔になってくれるよう話しかけていました。
ですが、ぶっきらぼうな返事が返ってくるだけで彼が笑顔になることはありません。
彼に理由を聞いても「皆といる時は気を遣っているだけだ」とのこと。
私はまた高校時代のように「いったい、私の存在は何なのだろう?」と考えるようになり、彼と一緒に居ることがどんどん苦しくなってきました。
そして約2年交際した後、別れることを決めたのです。
別れてから数か月後、元彼の飲み仲間の一人から交際を申し込まれ、今度はその方と付き合うことにしました。
「もう元彼とは別れているので問題ない」と、考えていたのですが…… その行動が元彼には許せなかったようです。
元彼は、私のことを周囲に色々と吹聴しました。元彼が被害者で、私と彼の飲み仲間が悪者。そんなストーリーが出来上がり
そして、周囲の人も私に対して腫物を触るような態度をとるようになったのです。
職場内でもギクシャクとした空気が漂い、私は、会社に行くことがストレスになりました。
押し寄せる過去
この頃から本格的に《 自律神経失調症 》の症状があらわれ、次第に頭痛、胃痛、不眠、肌疾患、女性疾患など、ありとあらゆる身体症状に悩まされるようになりました。
通院だらけの日々が続き、会社でも息苦しくなったり、我慢できないような痛みや痒みが襲ってきて仕事どころではありません。
元彼から罵声を浴びせられることも幾度かありました。
ですが、神経がむき出しになるほど深くリストカットをしてしまったのは、周囲からの非難の声を噂話で聞いた時でした。
「こんな不自由な身体なんて嫌だ! 元彼も、会社も、何もかも…… もう疲れた。」
~リストカットは自殺の手段としてはあまり適していません。私も死ぬことが目的ではなく、行き場のない感情を自分自身に向け、そして誰に言ったら良いか分からないSOSを発していたのだと思います。~
……病院で縫合処置を受けている時の私は、今現在の状況ではなく、高校時代の事件を思い出していました。
「中退させてしまってごめんなさい。” 殺して”なんて言わせてしまってごめんなさい。きちんと愛してあげられなくてごめんなさい。」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
リストカットをする時には、いつもこの記憶に戻ります。
いつまでも、この時の光景や罪悪感が私の心に刻まれていて、ふとした時に暗闇から手を伸ばして来るのです。
壊れ始めた私
この後、他事業部の東京営業所に異動になりました。
ギクシャクとした職場から離れ、人間関係も新規一転、ここでは何のトラブルもなく1年が過ぎました。
ですが、毎日の山手線の通勤、雑多な景色、ビルに囲まれた狭い空…… 悲しい気持ちが晴れません。
田舎から一人、県外に就職したばかりの時も、元気が出ない日は公園の樹木に触れて癒しを貰っていた私でした。
満員電車やビルだらけの景色、黄色く濁った空、排気ガスの匂い。
それらの全てがストレスにもなっていたと思います。
徐々に、会社の建物の中にいると怪物の身体の中にいるように思えたり、ビルが地面からニョキニョキと生えてくるように見えたり、人の顔が蝋人形のように見えたり…
景色がおかしな風に映るようになり、人と話すことや歩くことも辛くなって行きました。
リストカットをしてしまう私は、自分のことを何処かおかしいと思っていました。
ですが、こうなっては決定的に「頭がおかしくなってしまった!」と思い、精神病の本を読み漁りました。
鬱なのか分裂病なのか、私は一体何なのか???
本を読んでも分からず自分自身が恐ろしくなり、この時、さすがに精神科に行くことを決意したのです。
診断
私が選んだのは、当時通勤途中にあった東京のクリニックでした。
《 不安・抑鬱神経症 》と診断され、仕事は長期休養をとり、暫くはこのクリニックに通う生活となりました。
先生曰く「景色や人がおかしな風に見えるのも、歩くだけで疲れてしまうのも、心が疲れてクッションが無くなった時の人間の正常な反応」なのだそうです。
自分の症状が何なのかがハッキリわかり、少し安心はしたものの、身体は疲れるのに夜はぐっすり眠れません。寝ても悪夢を見て起きてしまいます。
そして、漠然とした不安が昼夜問わず常に付きまとっていました。
この頃の私には、過去は悲しい思い出で、現在は苦しく、未来は真っ暗な闇でした。
自分が何処に立っているのか、何がしたいのかも分からない。
ただ楽になりたい、誰かこの暗闇から私を救い出して欲しい。そんな風に思っていました。
救い
そんな私を最初に救ってくれたのは、先生の言葉でした。
「辛い思い出には蓋をすることが出来る、嫌な思い出は忘れてしまうことも出来る。でも、志保さんはそれをせず自分の気持ちと向き合っている。」
「志保さんにはまだ幼稚な部分があるけれど、アイデンティティを模索している姿が素晴らしいと思うよ。」
先生が言ってくれた言葉に、この時やっと自分以外の人に私の内面を見て貰えた気がしたのです。
そして先生を信頼し、自分の気持ちを話すことが出来るようになりました。
またその後、高校時代の親友にも何度も電話をし、私のこれまでの話を聞いて貰いました。
私が今まで命を繋ぐことが出来たのは、この時、私の心の声を聞いてくれた先生と親友のお陰です。
本当に感謝しています。
ですが、他者に助けを求めていた当時の私の心身は改善することはなく、会社にも復帰できずに暫くした後、実家に戻ることとなりました。
ここまでの人生、私はタイミングの前後はあるけれど、同じパターンを繰り返しています。
私の人生は「気付け!」と言わんばかりに、同じ所でつまずいていました。 |
再び故郷へ
実家に戻ってからは、調子が良い時には外へ出てガーデニングをしていました。
両親のもとで暮らし、安心を得ることも出来たと思います。
家族や自然と触れ合う生活の中で、次第に元気を取り戻し、少しずつ活動できる時間が増えていきました。
短時間のアルバイトから始め、徐々に社会復帰を進めます。
東京のクリニックに通えなくなった私は通院を辞めていましたが、この頃にはリストカットもしなくなっていました。
人にとって自然に触れることは、本当に心を落ち着かせ、エネルギーを充電する効果があるものです。
心身を鍛える
私の母校にはボクシング部があり、地元ではボクシング部の卒業生が「アマチュアボクシング教室」をボランティアで開いていました。
運動は、鬱症状に効果があると言われています。
そのことを知っていたわけでは無かったけれど、私は「心身の弱さを克服するために何かに打ち込みたい」と思い、ボクシングを習い、ボクシングの魅力に嵌っていきます。
そして、徐々にフルタイムで働けるほどに体調も回復したのです。
彼からのDV
私の社会復帰には、ボクシングを紹介してくれた同級生との出逢いが影響しています。
地元でその人と再会したのは夏でしたが、私の腕の傷を見ても「志保の勲章だな」と言い、「命の勉強」と言って釣りに誘ってくれたり、ボクシングを勧めてくれたのです。
彼もまた特殊な家庭環境で育ち、その後の人生もまるでドラマや映画の話を聞いているかのような、独特な人生を過ごしていました。
ですが、当時の私は「普通の人」(精神的不調を経験していないエネルギーの明るい人)と一緒に居るのは居心地が悪く感じていました。
本当の自分を知られたらきっと「おかしい」と拒絶されるだろうと思い、また、まともな人の人生に自分が踏み込んでしまうことにも引け目を感じていました。
なので、彼の特殊な生い立ちや経験を聞いても、普通の人と近づくことよりはまだ、彼を受け入れる方が容易かったのです。
彼は「こんなに優しくされたのは初めてだ」と、どんどん私に心を許してくれました。
けれど、社会復帰が進んで私がしっかりして来ると、彼の様子が少しずつ変わり始めたのです。
私の行動をチェックし、仕事の帰りやメールの返信が遅くなった時には、数時間に及んで言い掛かりをつけてきます。
彼は人の心理をつくのが上手く、一番嫌なところを責めてきます。
また、言い合いになると時々自制できずに暴力もふるいます。ずっと格闘技を習って来た人なので、本気を出さなくとも充分に威力がありました。
何度も離れようとして、でも離れられず…… 葛藤の日々が続きました。
ですが、このDVがキッカケとなり私は、本当に身の危険を感じたのです。
このままこの男と一緒にいてはいけない。でも、頼れる人もいない。
「自分を守れるのは自分しかいない」
この時やっと意識を改めることが出来たのです。
今までの経験で「何処に行っても自分は自分、自分が変わらないと何も変わらない」ということを分かってはいました。
けれど、変わるキッカケが掴めなかった。自分はダメだと責めることで満足し、自分で変わろうとしていなかった。
誰かを頼ってばかりいた私が、やっと「自分で闘う」という選択をすることが出来たのです。
心に空いた穴
この頃私は、自分の心の中にある空虚感(ぽっかりと空いた穴)が気になっていました。
この「穴」が漠然とした不安の元であり、この「穴」を埋めるために男性と交際をしていた。
本当にそれを望んでいたかと言うと、そうでも無いことが多かった……。
周囲を見渡すと、この穴が無い人もいれば、ある人もいる。「穴が無い人」の心は安定しており、「穴がある人」は不安定で必死にもがいている。
この穴は一体何???
この後私は、この穴の正体が何かを知り、自分の人生に起きたことの意味を理解していくのです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
この後、後編に続きます。
ドロドロとした話から明るい話題へと転換していきますので、まだ読める気力のある方は、お付き合い下さい。
~Shiho~