私がどんな人生を歩み、どんな経験をして「今ここ」に辿り着いたのか
私の人生の物語を通して、このサイトに訪れてくれた方の共感や、参考、励みになれば幸いです🍀
第2の人生の始まり
私の人生は「誰かに助けて貰うのではなく、自分で自分を守る」と決めてから好転していきます。
別れた彼に「ボクシングを辞めろ」と言われたけれど、この時の私を支えてくれていたのはボクシングでした。なので辞めずに続けました。
高校時代にも付き合っていた彼から「部活を辞めろ」と言われたことがありましたが、当時も、私を支えてくれていたのは部活でした。
私はいつもスポーツに支えられていました。
嫌な出来事があっても、辛い思いをしていても、スポーツに取り組んでいる時には何もかも忘れ、身体を動かすことに集中できたのです。
挫けない心
DVの彼と別れた頃、私の体調はまだ完全には良くなっておらず、世界3大激痛と呼ばれる「群発頭痛」の発作がありました。
これは、何らかの原因で三叉神経が刺激されたり眼球の裏にある太い血管が腫れ、左右どちらかの顔部に激痛を引き起こす頭痛です。
私の場合、約2年に一度、2か月程度の期間だけ(群発期)毎日発作的に頭痛が起きました。
1回の発作では約1~2時間の間、眼球がえぐられる拷問のような痛みが続くのです。
最初にこの発作が起きたのは、私が県外に勤めていて、人間関係のストレスにより自律神経失調症の症状が現れ、身体のあらゆる部位に不調が現れていた頃です。
夜中、いきなりの激痛に飛び起き、なかなか痛みが治まらないため救急車を呼びました。が… 病院に付いた頃には痛みがおさまり「目には異常なし」と、そのまま帰されました。
まだこの頃の日本では群発頭痛の患者数も少なく、医師の間でも認知度が低かったのです。
アメリカではこの痛みに耐えられず頭痛発作時に銃で自分の頭を打ちぬいたり、暴れまわっている内に窓から転落してしまうといった悲しい事故が起きています。
「じっとしていられない程の痛み…」それが群発頭痛です。
強い発作時にはのたうち回ったり、壁や床に頭を打ち付けたり、大声で唸ったり、そんな状態になります。
市販の頭痛薬は一切効果がありません。ですので、私は諦めて発作期間にもボクシングの練習を続けていました。
我ながらよく、この頭痛に耐えて来たと思います。
この後しばらくして自分でも群発頭痛の緩和方法や病院を調べ、医師に説明をし、きちんと処置をして貰える病院を見つけました。
発症から約12年間、合計5回の群発期をやり過ごし、やっと頭痛の無い今の生活に至っています。
独りに成る
DVの彼と別れた直後、私はまだ「独り」という環境に不安を感じていました。
夜になると理由もなく不安になる。誰かに頼りたくなる。
でも、それが失敗の元だということを嫌という程思い知っています。
「何で私はこんなに弱いんだ、これじゃあ情けなさすぎる、独りに慣れなきゃダメだ」
始めて本気で自分の心の弱さと向き合い、独りになる期間を作りました。
そして、このことが少し自信にも繋がり、徐々に自分のことを認められるようになって来たのです。
自らの足で歩く
元彼に屈することなく、頭痛にもめげずにボクシングの練習を続けてきた私は、公式試合として開催されるようになった「全日本女子アマチュアボクシング大会」に県代表選手として出場することになりました。
とても光栄な話に喜び、そして今までの人生では中高の部活でもずっと2番手だった私が1番を目指すべく、会社務めをしながら更に練習に励みました。
すっかりボクシングが私の生き甲斐になっていました。
ところが…… その努力も虚しく、大会直前に「卵巣腫瘍」が発覚したのです。
痛みがあったため婦人科を受診した所、即、手術を受けて卵巣を摘出しなければならず、大会出場も断念する結果となりました。
努力をしても報われない悔しさ、女性として何かを失ってしまった悲しさ……
人生を前向きに進めようとした矢先のダブルショックに、暫くはボクシングも見たくない、結婚することも考えたくない。そんな沈んだ気持ちでいました。
けれど以前とは異なり、リストカットをしようとか、自分が何処に立っているか分からない。といった感覚はありませんでした。
やりたい事を見つけ、自らの足で歩き出した私は、明らかに今までの私とは違っていました。
そして、手術の傷が治ってくると動きたくて仕方なくなり、ボクシングの練習を再開し、翌年には無事に全日本大会に出場することが出来たのです。
この頃はまだ女性のボクシング選手がほとんどいなかった為、母校の男子校生に混ざって練習をしたり、県外の強豪選手を訪問するなど、様々な所に自力で足を運びました。
そして、アマチュア女子ボクシング実戦選手の年齢制限、35歳まで選手を続けました。
反対されても尚、自分で「やる!」と決めたことだから、ずっと続けることが出来たのだと思います。
人生の教訓
私が母校に練習に通い始めて間もなく、母校には女子ボクシング部が作られ、外部コーチも引き受けました。
お世話になったボクシングに恩返しがしたかったのと、女性系の身体の不調を繰り返し「子供は望めないのでは?」と思っていた私にも、「後世に何かを残したい」という気持ちが芽生えてきたのです。
人生をそんな風に思うようになったのは、妹の死が関係しているのかも知れません。
命の尊さ
妹は24歳の若さで亡くなりました、私が29歳、卵巣の摘出手術から回復し、新たな職場に就いて直ぐの時でした。
妹と私は根本的にはとても似ているように思います。同じ性質の陰と陽のような感じです。
敏感で感受性が強く、正義感と好奇心も強い。ただ、私は自分の気持ちを内に閉じ込める内向的な性格で、妹は気持ちを外に放出する外交的な性格です。
そんな妹ですが、やはり人間関係が上手く行かず、県外に住むようになってからは徐々に「境界型人格障害」の傾向が強くなっていきました。
情緒不安定で、激しく怒る時や楽しんでいる時と、悲しんで落ち込んでいる時を繰り返していました。衝動的な行動も多々あり、そして妹もまた私と同じように、実家に戻って来たのです。
実家では母親に感情を当たり散らすことが多く、父も母も私も、どう対処すれば良いかほとほと困り果てていました。
妹は精神科で薬を処方して貰っていましたが、ある日、睡眠薬を多用して就寝し、不幸にも吐瀉物が喉に詰まってそのまま帰らぬ人となったのです。
あまりにも若い、そして突然の死に、父と母の悲しみは深く、そして皆自分を責めてしまう。
「もっと何かできたのではないか?」と…
皆の悲しむ姿を見てやっと私は「自分勝手に命を絶ってはいけない。親より先に死んではいけない。」と思うことが出来ました。
少し前までの私は、他人と自分の間にとても距離があるように感じていました。
自分が生きている、生きたい、という気持ちが弱く、人生に希望を持つことも出来なかったのです。
「私が死んだところで、周囲への影響も大した事は無いだろう。」その考えは間違っていたと、妹が教えてくれました。
ついこの間、手術を経験した私は、直後に妹の死を経験し「人生は本当にいつ何が起きるか分からない」と実感しました。
明日、死んでも後悔しないように…。
そんな生き方を意識するようになったのです。
失敗から改善へ
大会出場を目指すようになってから、母校のボクシング部の部活に参加し練習をするために、私はアパレル販売の仕事から製造業へと転職しました。
最初は派遣会社に登録し、紹介された工場で働いていた私ですが、派遣先の2社目で運命の出逢いとも言える「品質管理」の業務に就いたのです。
私は「ISO9001」の事務局業務を担当しました。そして、業務を通して考え方をポジティブに変えていきます。
以前「抑鬱・不安神経症」と診断を受けた通り、私は不安が強く、周囲の目を気にし過ぎる傾向がありました。
「人に良く見られたい」「嫌われたくない」そんな心理から、何か失敗した時には相手の顔色をうかがい、ずっとハラハラ、ドキドキと気持ちが落ち着きませんでした。
ですが、ISO9001(品質マネジメントシステム)の仕組みはPDCAを回すこと。
Plan=計画を立て Do = 実行し Check=その結果を確認し Action=改善へとつなげる |
失敗することは決して悪いことでは無く、失敗を放置することがNG
「如何に改善につなげるか?」が重要です。
ISO9001の事務局を担当した私は、そのことをしっかり理解し周囲に伝える必要があり、何度も何度もISOの要求事項を読み返し、説明資料を作成したり教育を実施しました。
自分の行動の結果が良くなかったら、その原因に辿り着くまで「なぜ?」を繰り返します。何処に問題があったかを分析して、問題となった行動をとらずに済むような処置をします。
抜けが無いよう手順を決めるとか、チェックリストを作る、計算を自動化するなどです。
こうやって間違えに対して、再発防止の処置をすることで「次からは間違えないように出来る」という気持ちが芽生え、相手の顔色を伺うことも減って行きました。
失敗したら改善すれば良い。そう思うと、とても気持ちが楽になったのです。
どう生きたいか
自分で自分を守ると決め、命の尊さを再確認し、失敗を改善へと繋げる意識を身に着けた私の人生は、その周囲の人間関係もガラリと変わりました。
気の強い女性からは目をつけられ、男性からはセクシャルハラスメントを受ける。恋愛をこじらせて泥沼にはまる。
その悪循環は、気持ちをしっかり強く持ち、嫌なことは「No」と言い、自分の行動で「ここが良くない」と思った所を改善していくと、自然と経つことが出来ました。
男性と付き合う時もしっかり相手がどんな人かを見て、自分はその人どうなりたいか?自分の人生をどうしたいか?を考えるようになりました。
そうして付き合った相手とは、別れ際にもトラブルを起こすことは無いのです。
私は、旦那と出逢う前に「この人とは何かがある、きっと運命の人だ」と思える相手と出逢いました。
彼の名前や外見などが、私の今までの恋愛と偶然にも重なる部分が多く、そして温和だけれど芯の強い尊敬できる人でした。
けれど彼は家族想いの長男で、既にご両親と一緒に建てた家に住んでおり、彼と結婚するには彼の実家に入るしかありませんでした。
彼の両親が嫌なわけではありません。ですが、ようやっと自分の生き方をみつけた私には、他の家庭に入る決心がつかなかったのです。
次第に彼と会うこともおっくうになって来ました。あれだけ好きだと思った相手だったのに…
自分の気持ちが分からなくなり、暫くの間悩みました。そして、自分が求める恋愛と、自分が求める家庭を切り離して考えることにしたのです。
私が選んだ道は「実家に残り、この土地で庭や畑のお手入れをしながら過ごす」という道でした。
今、旦那と築いている家庭が、正にその形です。
仕事でも、ISO9001の事務局員から、徐々に教育や運営まで一人で手掛けるようになります。少しずつ、少しずつ、新たな取り組みにチャレンジし、自分に自信を付けて行きました。
この時、私にISOを教えてくれ、私を信頼して運営を任せてくれた上司には、本当に感謝しています。
仕事でも自分がどうしたいのかを考え、実行し、分析し、そして改善する。ということができ、それが自分自身の成長に繋がったのです。
周囲の人の話を聞き、反応を見て、全ての課がうまく回るようになるにはどんな仕組みが必要か… 自分のことだけではなく、全体を見る目がこの時に出来ていきました。
公私共にその時の感情任せや、周囲に流されるのではなく、自分で意図して行動する。そんな人生になってきたのです。
射し込んできた光
気が付くと、以前感じていた私の空虚感(心の中にぽっかりと空いた穴)は、無くなっていました。
まだまだ自信は無いけれど、それでも仕事では組織全体のためを考え、自分で意思を持ち、新たなことにもチャレンジする。
成りたい未来を想像して進む。そんな自分を好きになって来れたのです。
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自己肯定感
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「ああ、これか…」
心にぽっかりと空いていた穴は、自分で自分を受け入れられず否定することから生まれたものでした。
頑張るところを間違っていたのです。自分の弱さと向き合う勇気がなく、そこから逃げて現状を我慢することを頑張っていたため、物事が悪い方へと進んでいたのです。
自分の弱さと向き合い、乗り越えていく。それが出来た私は、まだ不完全でもやっと自分を認めて「私はこれで良い」と思えるようになりました。
自分の足で、しっかり立っている感覚があるのです。
それが本当の地面じゃなくても良い。自分が立っている場所が自分の地面で、自分の居場所。
そこから進みたい先が自分の未来なのだと、人生に光が射してきたのです。
この後も、公私に渡ってPDCAサイクルを回し改善するということを繰り返し、常に「自分がどうしたいか?」を心に問いかけながら進んで来ました。
思い通りに行かないこともあれば、努力でなんとか出来ることもありました。
でも、納得の行かないことはありません。全てがその時の必然だったのだと、人生を受け止めることが出来ています。
娘を授かり、今までの波乱の人生を遠い日の出来事のように思い、日常の何気ない幸せに感謝しながら、日々を過ごすようになりました。
私の人生はここから更に転換し、今は魂の目的を叶え、悟りの道へと続く第3の人生が始まっています。
人生は、様々な出来事を通して、自分の意識が本来あるべき所からズレてしまっていることを教えてくれています。 どんな事があっても、正しく意図すれば、人生は自分が望む方向へと、好転させていくことが出来るのです。 |
私の話を最期まで読んで頂き、ありがとうございます。
私の人生は、一つの気付きから始まり意識を変えたことで、数珠繋ぎに他の行動も変わり、好転していきました。
どんな状態からでも、意識を見直すキッカケがあれば必ず立ち直れるのだと、自分の人生を通して学びました。
このサイトの投稿や、パワーストーンリーディングが、その気付きやキッカケとなれることを願い「音色智進」の活動を続けています。
皆さまも、何があっても希望を見失わないよう、ご自身の内側にある光を信じて、心から望む人生を進まれますように🌱
願いを込めて ~Shiho~